kenyaのはてな

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とっても新鮮な新選組

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皆様おこんばんは!元気かい?オリンピックが延期になると言う事で巷では大騒ぎですね、選手達の事を考えるならこれが最善だとわたくしめは思います、良いコンディションで最高のパフォーマンスを見れる事を期待してます!そんな今回は新選組について調べて行こうかと思われし、名前は知っていますがどんな人達かいまいち分かりませんと思われる方が多数居られると思います、そんな方の為にお送り致します、それでは最後までごゆるりとご覧下さい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

‪幕末の京都は政治の中心地であり諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の志士が集まり従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は清河八郎による献策で浪士組の結成を企図した江戸で求人したあと京に移動した、しかし清河の演説でその本意を知った近藤勇芹沢鴨らが反発、京都守護職会津藩主・松平容保の庇護のもと新撰組として発足した同様の配下の京都見廻組幕臣で構成された正規組織であったのに対して新選組は浪士で構成された「会津藩預かり」という非正規組織であった隊員数は前身である壬生浪士組24名から発足し新選組の最盛時には200名を超えた任務は京都で活動する不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、反乱の鎮圧などであった、その一方で商家から強引に資金を提供させたり隊の規則違反者を次々に粛清するなど内部抗争を繰り返した慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられる翌年に戊辰戦争が始まると旧幕府軍に従い転戦したが同戦争終戦とともに解散したぞ‬

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

‪【沖田総司】‬
‪9歳の頃、天然理心流の道場・試衛館に入門、若くして才能を見せ塾頭を務めた15歳のとき日野の八坂神社に奉納された天然理心流の額には4代目を継ぐことが決まっていた近藤勇より前に沖田の名前が記載されている沖田家累代墓碑には天然理心流の他、北辰一刀流の免許皆伝を得ていた旨も記されている永倉新八は後年「土方歳三井上源三郎藤堂平助山南敬助などが竹刀を持っては子供扱いされた恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」と語った実際、竹刀をとっては近藤の一段も二段も上を行ったという沖田の指導を受けた者によれば「荒っぽくて、すぐ怒る」といい稽古は相当厳しかったらしく師範の近藤より恐れられていた「刀で斬るな!体で斬れ!」と教えていたという言い伝えもある沖田の剣技で有名なのが「三段突き」であり日野の佐藤俊宣の遺談によると平正眼の構えから踏み込みの足音が一度しか鳴らないのに、その間に3発の突きを繰り出したという赤間倭子によると「山攻撃破剣」という剣法が苦手であったというぞ‬

 

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

‪【永倉新八】‬
‪18歳で本目録、元服して新八と称する同年、剣術好きが昂じて脱藩し永倉姓を称して江戸本所亀沢町の百合元昇三の道場で剣を学ぶ、その後、市川宇八郎と剣術修行の旅に出る江戸に戻ると心形刀流剣術伊庭秀業の門人・坪内主馬に見込まれて道場師範代を務め、そこで門下生だった島田魁と知り合うその後、近藤勇の道場・天然理心流「試衛館」の食客となる近藤らと共に浪士組に参加、新選組結成後は二番組組長や撃剣師範を務めるなど中枢を成した元治元年(1864年)の池田屋事件では近藤や沖田総司らと共に池田屋に突入、沖田が昏倒し藤堂平助が負傷して離脱、永倉も左手親指に深い傷を負った中、防具がボロボロになり刀が折れるまで戦った事件後、新選組の勇名は天下に轟いた、その後、近藤に我儘な振る舞いが目立つようになると、これを遺憾とした永倉や斎藤一原田左之助島田魁、尾関政一郎、葛山武八郎は脱退覚悟で近藤の非行五ヶ条を会津藩主・松平容保へ訴え出る等、近藤勇土方歳三との路線対立を見せる後、幕府から見廻組格70俵3人扶持に取り立てられた油小路事件では原田らと共に御陵衛士を暗殺、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは決死隊を募って刀一つで突撃する豪胆さを見せた江戸に退却後、新選組改め甲陽鎮撫隊として新政府軍と甲州勝沼にて戦うが敗れ江戸へ戻った後は近藤らと袂を分かつ、その後、靖兵隊(靖共隊)を結成し北関東にて抗戦するが米沢藩滞留中に会津藩の降伏を知って江戸へ帰還し、その後、松前藩士として帰参が認められる明治4年1871年)家老・下国東七郎のとりなしで藩医・杉村介庵(松柏)の娘・きねと結婚して婿養子として松前に渡る、新選組の組長格の中でも屈指の剣腕を誇り阿部十郎は後年「一に永倉、二に沖田、三に斎藤の順」と語っている「龍飛剣」と称する下段の構えから上へ敵の剣を擦り上げながら下へ切り落とす技を得意としていた我武者羅な性格だったので「我武者羅」と「新八」を合わせ「がむしん」と呼ばれていた芹沢鴨と同じ神道無念流の免許皆伝で、芹沢とも親しく交わっていた非行五ヶ条を訴え出た時の永倉らの主張は近藤勇を局長と認めるが家臣ではなく同志だとする主張が込められている近藤が増長した原因としては武田観柳斎に隊士は家臣として局長を慕っていると吹き込まれたためともいわれる‬鳥羽・伏見の戦い以後、大坂、江戸などでは土方歳三が不在時には隊長代務をこなすなど土方からの信頼も厚かったぞ‬

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

‪【斎藤一】‬
‪19歳のとき江戸小石川関口で旗本と口論になり斬ってしまう父・右助の友人である京都の剣術道場主・吉田某のもとに身を隠し吉田道場の師範代を務めた永倉新八の手記『浪士文久報国記事』には斎藤は江戸で近藤勇の天然理心流試衛館に出入りしていたと記されているが、のちに近藤が京都に滞在した試衛館の一同に武具を届けさせたときには斎藤は含まれていない浪士組にも参加しておらず京都で新選組の徴募があった際に初めて加入したとも考えられる少なくとも斎藤の上洛は近藤たちとは別行動であった文久3年(1863年)3月10日、芹沢鴨近藤勇ら13名が新選組の前身である壬生浪士組を結成、同日、斎藤を含めた11人が入隊し京都守護職である会津藩主・松平容保の預かりとなる新選組幹部の選出にあたり斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢された後に長州征討に向け再編成された新選組行軍録には三番組組長として登場し撃剣師範も務める元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では土方歳三隊に属し事件後幕府と会津藩から金10両、別段金7両の恩賞を与えられた新選組内部での粛清役を多く務めたとされ長州藩の間者(スパイ)であったとされる御倉伊勢武、荒木田左馬之助のほか武田観柳斎谷三十郎らの暗殺に関与したとも言われるが事実と符合しないことも多い慶応3年(1867年)3月、伊東甲子太郎御陵衛士を結成して新選組を離脱すると斎藤も御陵衛士に入隊する間者として潜入していたとされる新選組に復帰する際、御陵衛士の活動資金を盗んで逃げた、これは金に困って逃げたように見せかけるためであったとされる稗田利八の述懐によれば斎藤が新選組に戻った際「副長助勤斎藤一氏、公用をもって旅行中のところ本日帰隊、従前通り勤務のこと」と掲示が出ていたという新選組が伊東ら御陵衛士を暗殺した油小路事件は斎藤が復帰の際にもたらした情報に基づいて起きたともいわれる斎藤の修めた剣術の流派は、はっきりしていない子孫の言い伝えでは一刀流であるとされてきたそれに対し斎藤の研究をしていた作家・赤間倭子は一刀流説を否定して無外流であるとしている子孫に言い伝えられている一刀流とは無外流のもとになった山口一刀流のことであるという斎藤は播磨国で無外流(山口一刀流)を修め津田一伝流、関口流柔術)も学んだという斎藤一が名乗った山口姓、斎藤姓と山口一刀流との関連も指摘しているぞ‬

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

‪【土方歳三】‬
新選組時代には局長・近藤勇の右腕として組織を支え戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、いわゆる「蝦夷共和国」では軍事治安部門の責任者に任ぜられて軍才を揮った明治2年(1869年)5月11日、戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭防衛戦で狙撃を受け戦死、天然理心流試衛館に入門した翌年の万延元年(1860年)に刊行された『武術英名録』(江戸を除く関東地方の剣術家名鑑)に土方歳三の名が掲載されており、すでに一定の実力に達していたことが窺える、ただし天然理心流道場では歳三は中極位目録までの記録しか現存していない、しかし多様なバックボーンを備えていたためか路上での実戦では滅法強かったと言われている斬り合いのとき足下の砂を相手にぶつけてひるんだ隙に斬り伏せたり首を絞めて絞殺したりなど剣術修行の型にとらわれず縦横無尽に戦闘をしていたという実際に戦地でも常に最前線で戦い多数の修羅場を体験しながらも剣戟で斬殺されてはいないことからも相当な実力を誇っていたと見られる永倉や斉藤、沖田や近藤も同様である真紅の面紐に朱塗りの皮胴など洒落た防具を使用した高幡不動の境内をよく稽古場所として使っていたともいわれる新選組が屯所としていた八木邸の八木為三郎の述懐によれば新選組の剣術稽古で近藤勇芹沢鴨は高いところに座って見ていることが多かったが歳三はいつも胴を着けて汗を流しながら指導していたというぞ‬

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

‪【近藤勇】‬
新選組局長、後に幕臣に取り立てられ甲陽鎮撫隊隊長、勇は通称で諱は昌宜という慶応4年(1868年)からは大久保剛を名乗り後にさらに大久保大和と改めた嘉永元年(1848年)11月11日、勝五郎は江戸牛込に所在する天然理心流剣術道場・試衛場に入門する勝五郎が入門した道場は「試衛館」として知られるが多摩郡蓮光寺村の名主・富沢政恕日記および小島鹿之助『両雄士伝』に拠れば「試衛」は号で「試衛場」と記されている翌嘉永2年6月には目録を受ける同年10月19日には近藤周助の養子となり周助の実家である嶋崎家へ養子に入り嶋崎勝太と名乗るのちに正式に近藤家と養子縁組し嶋崎勇と名乗ったのちに近藤勇を名乗った安政5年(1858年)には日野宿の牛頭天王社(八坂神社)の奉納額に「島崎勇藤原義武」と記している口に拳骨を丸ごと咥えこむという珍妙な特技を持っていた近藤が尊敬していた戦国武将・加藤清正も同様の特技を持っていたと言われ近藤は自分も加藤のように出世したいと笑いながら話していたという、この逸話は子母澤寛新選組始末記』において紹介されている愛刀は長曽禰虎徹興里、講談などでの近藤の決め台詞「今宵の虎徹は血に餓えている」は有名、近藤自身は所有の刀を虎徹と信じており池田屋事件の後に養父宛てにしたためた手紙の中に「下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」とある近藤の虎徹については真贋を含めて所持は不明であり複数の説がある子母沢寛の『新撰組始末記』では「江戸で買い求めた」「鴻池善右衛門に貰った」「斎藤一が掘り出した」の三説を挙げている研師の犬塚徳太郎は本作を源清麿作のものとしている関東大震災の折に焼失している暇があれば刀剣の話をしたという「脇差は長いほうが良い」と書かれた手紙が残っている‬ぞ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はい!本日も無事にお伝え致しました!誰もが知っている新選組、その歴史は深く興味深いものばかりです、全てをお伝え出来ないのが無念でなりませんでしたとさ…終わり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

【楽しい広場】

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